前話の復習
ジャージー規則の始まり -13話-
競馬はイギリスを中心に世界的に発展してきた。フランスはもちろん、フェデリコテシオがいたイタリア、そして、アメリカでも盛んに行われた。
しかし、イギリス人はイギリス産馬以外は二流馬だとイギリス馬に誇りを持ち続けていた。
サラブレッドは人間が改良を重ね作り上げたもので、血統不詳は認められないというルールがあった。
それは、イギリスが他国のイギリスへの侵略を防ぐルールであった。そのルールが1913年の「ジャージー規則」である。
この話は遡ること、19世紀半になる。産業革命以来、イギリスは世界を席巻し、他の国は後進国となった。
競走馬の世界においても、各国はイギリスから用無しとされた馬の受け皿的な役割となっていた。その中で、1850年、アメリカで初の名馬と呼ばれるレキシントンが誕生する。
そして、19世紀後半、このレキシントンの血を受けた馬たちがイギリスで侵略を開始する。
1881年、2歳で渡英したイロコイがイギリスダービーを勝ち、フォックスホールがフランスでパリ賞典を勝つ。
フォックスホールは1882年に欧州チャンピオンにもなったが、これらの馬にはレキシントンの血が入っていた。レキシントンはアメリカ雑種血統(血統不詳)であった。
さらに、アメリカでは各州で反賭博法が施行され、アメリカ産馬は続々とヨーロッパに流れたが、走ると好成績を残した。
とうとうイギリスは自国の馬を守り、アメリカ産馬を排除するため、1913年に「ジャージー規則」を作り、血統不詳はサラブレッドとして認めず、種牡馬として共用しないとした。
【ジャージー規則】
「イギリスの血統書に産駒登録されるものは、父系、母系の先祖全てが、その第一巻までさかのぼってはっきりしていなければならない」
サラブレッドと認められない馬(外国産馬)はサラブレッド系種としてレース参加したが、イギリスで種牡馬、繁殖牝馬とされることが無くなった。
ただ、これがさらにイギリスの首を絞めることになるのである。
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