前話の復習
ジョッキークラブと規則 -35話-
さて、話は変わり、三大始祖やその子孫が優れた血を後世に伝える中で、競馬の体制も変化していきます。各地で行われていた競馬も少しずつではあるが体制が整っていくのです。
18世紀のロンドンでは閉鎖的なクラブや酒場が増えました。政治クラブ、文学クラブ、社交クラブ、さらに秘密的なクラブもありました。
あらゆるクラブが誕生し、消えていきました。その中で、競馬を熱愛する人たちにより、競馬のクラブも誕生しました。
前にも話しましたが、競馬は本来は馬主の名誉のために行われるのですが、賭け事による八百長や不正も横行しました。この混乱を軽減するために規則が設けられます。
規則については、キングス賞杯競走には規則があるのですが、他のレースにはありませんでした。
このころの資料に、ようやく「ジョッキークラブ」という名前が出てきます。あるレースについての規則ですが、
「ジョッキークラブに所属する貴族及び郷紳階層の所有馬による、出走料なしの賞杯(プレート)競走を実施する予定である。
これは1回のヒート競走により、円形コースを走り、負担重量は8ストン7ポンドとする」とうい記述の資料があります。
いつ、どのようなメンバーで創設されたかは定かではないが、1752年にジョッキークラブがニューマーケット市内に喫茶室を立てる場所をもらい、レッドライオン亭を建てて使用していた記録もあります。
これは、ヨーロッパ内においても、イギリス独自の社会現象だったようです。そして、クラブができた理由にはお金が絡んでいる部分がありました。
お金が絡むとどうしても、決まりが必要です。私の勝手な意見かもしれないが、イギリス人は賭け事が好きだ。だから、規則を決めておかないといけない。
負債が大きくなった時の調停の際に規則が必要になる。当時、つくられた規則の半分は賭け事に関することが書かれていたようです。
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